コラム

陰ヨガを選んだわけ

陰ヨガのクラスを開きたい。

そこに至るまでには、色々な形を模索していました。

いろいろなタイミングの重なりで

ぼくは四柱推命とヨガを同時に学び始めています。

自分の不調と向き合うなかで

ヨガの一部の理論と、東洋思想の易の世界の一部に

とても親和性や共通性を感じ、ハッとした事があります。

これは机の上では無く、身体を通して感じたものです。

「全ては表裏」「相反する二つのものが万事を生み出している」

という世界観と

「全ては変化する」「変わらないものは無い、という点は変わらない」

この点です。

二元論と一元論がミックスされていると思いました。

その点を自分なりに統合的な理解ができないかと考えながら、

色々なスタイルのヨガを練習し始めたのが原点です。

そして後に東洋思想の影響を帯びた「陰ヨガ」というスタイルが既にある事を知り

ヨガ資格RYT200を目指した時から

その後は陰ヨガを学ぶ方向に行こうと

自由研究がはじまりました。

 

 

必ずしもヨガさえすれば、心はおだやか元気になれる

と決まっているわけではありません。

扱い方、取り組み方次第で、余計に迷ったり疲弊したり、

ヨガ自体がつまらなく嫌いになることさえあります。

そんな中、この「陰ヨガ」のスタイルには、終わった後に充実感を覚えました。

いっぱい体をつかった後

何かができなかったという不達成感が無く

まだまだ未熟だと自分を責める事もなく

さてこの後は何しようかな?と

英気が回復するのを感じられました。

本来のじぶんの形と繋がることが、気力の充電になっていく

爽快感とは違う

マットの上から離れた日常に

持ち帰れるものがあると感じました。

 

今はたくさんの素晴らしい先生に運良く巡り合い

色々な言葉を胸に練習しています。

もちろん陰ヨガ以外の練習も自主的に色々取り入れています。

アイアンガーもアシュタンガもシヴァナンダも好きです。

でも良さは比べられません。

今後も気づきやアップデートを

繰り返しながら

でもやっぱり学んだものを持ち帰る家は

変わらない陰の部分なのかなと感じているところです。

 

まだヨガのことをよく知らず、太陽礼拝も順番がわからない頃

運動せず自由に飲み食いし頭痛は止まらず、不調だらけの身体が

無理なく行えたあの時のポーズたちは

今思えば「陰ヨガ」のポーズたちでした。

はじめて丁寧に自分の脚を触ったとき

知らない間に涙が出ていたことがあります。

美容や、身体機能の回復、柔軟性を手に入れる

そういった明快な狙われた効果以外に

「終わった後に、なんとなく満たされている」

こういった経験を生み出せたら、そんな事を考えて

陰ヨガの理解を育てています。